多様に別れ複雑化した仏教が、そもそもどいう教えだったのか。原始仏教を紐解くことで、学習をして行きます。

人間/釈尊

以下の内容は、facebook「伊豆小室山禅堂」のページに、H.24年2月28日から、H.24年5月30日迄に掲載した内容です。以降の掲載内容は、フェイスブックをご覧下さい。

 

Facebook掲載 〜人間/釈尊より〜

 

 

さて、当面は、禅僧としての立ち位置から、「原始仏教」や「上座仏教」の勉強を通じ、感じ・考え・お伝えしたい事等をアップして行きます。

 

それでは、先ずこれから、「人間/釈尊」について、シリーズ形式で勉強して行きたいと思います。

 

〜人間/釈尊(1)〜

 

さて、仏教の開祖がお釈迦様であることは、日本人なら誰でもご存知の事と思います。では、お釈迦様は何処で生まれたかをご存知でしょうか?
はい、それは現在のネパールの「ルンビニー」という園と伝えられています。今から約2,600年前のことです。

 

では、お釈迦様はネパール人なのか?というと、それは微妙でして、ルンビニーで生まれたのは確かな様なのですが、それは母親であるマーヤ夫人が、お産の時に立ち寄り、そこで産んだという事なのです。

 

更に、そもそも両親は、何処に住んでいたかというと「カピラヴァスト」という地でした。そのカピラヴァストが何処にあったかと言うと、現在のインドかネパールの辺りだと言う事は分かっているのですが、はっきりしないのです。
従いまして、インド政府とネパール政府は、それぞれ自国で生まれたと主張し合って、実は国際問題になっているのです。

 

その一族は「サーキヤ」と呼ばれていたので、「釈迦」となり、「釈迦族の生んだ高貴な人」という意味で、お釈迦様のことを「釈尊」と言います。

 

釈迦族は、共和制を敷いており、貴族間の合議で物事を決めていた様です。そして釈尊の家柄は、その貴族の中から選出されて王家になった家柄です。

 

また釈迦族は、アーリヤ人種ともモンゴリアンとも言われており、これまたハッキリしないのですが、稲作文化の定住民族でした。
釈尊の父親の名は、「スッドーダナ」と言い、「スッダ」が清いという意味で、「オーダナ」が米の飯という意味です。
釈迦族の王様の名前には、代々この「オーダナ」の言葉が入っていました。

 

仏教が、最終的に日本に定着したのは、こうした稲作の風土が似ていた影響もある様です。

 

今回は、ここ迄で終わります。合掌 一舟

 

 

 


お早うございます。
今朝の小室山には、穏やかな春の日差しが注いでいます。
お寺の庭には、沈丁花が咲き始め、落ち着いた素敵な香りが漂い始めました。
伊豆小室山禅堂では、なるべく1週間に1度位のペースで、「原始仏教」等を中心に、「本来の仏教」の勉強をして行きたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

 

〜人間/釈尊(2)〜

 

前回は、お釈迦様のお生まれになった当時の環境や背景について、俯瞰的にお話させて頂きましたが、今日はお釈迦様の別の呼び方、「ゴーダマブッダ」と言う名前から、勉強を掘り下げて行きたいと思います。

 

ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、「ゴーダマブッダ」という名前は、「ゴー」「ダマ」「ブッダ」の3つの言葉から成り立っているんです。
この3つの言葉の中で、仏教の生まれた時代背景や環境を理解する上では、「ゴー」が最も重要なんです。

 

では、「ゴー」とは、何を意味するのでしょうか?
はい、それは「牛」、特に牝牛を意味します。「go」と書き、英語の「cow(カウ)」、ドイツ語の「kuh(ク―)」と語源的には関連が有ります。

 

つまりお釈迦様が生まれた当時、その地には、牛をとても大切にする習慣が有ったんですね。この習俗は、インドの古い聖典「リグ・ヴェーダ(=??????)」にも見られます。

 

一寸脱線しますが、インドでは現代でも牛を大事にしていますので、インドのマクドナルドは、豚肉とか鶏肉だそうです。

 

さて、この牛を大事にする気持ち・心理は、前回申し上げた釈迦族が、稲作文化の定住民族であった事とも大きく関係します。
日本でも同じですが、稲作をするには、田んぼを耕すには、大きな労働力を要します。その労働力を提供してくれるのが、牛。米がなければ、日本人は生きていけませんでした。

 

インドにおいては、農耕の助けのみならず、ミルクという貴重な栄養源を搾乳でき(その牛乳はチーズ・バター・ヨーグルト等の乳製品にも加工され)、糞は乾燥させて良質な燃料となり、尿は化粧水等に使われたとも言われています。

 

まさに牛は、農耕民族にとっては、かけがいのない天からの贈り物であり、財産であり、豊饒の象徴だったんですね。牛がこの世にいなければ、とても生きてゆけないと本能的に感じていたのでしょう。

 

現代でもインドでは、電車の線路上に牛が寝ていると、電車は止まり、牛が動く迄待つそうです。つまり、人権よりも牛権が、優先するんですね(笑)。

 

牛と人間との関係性については、とても興味深いのですが、この点については、またいつか詳しくお話させて頂きます。

 

しかし、日本だけを見ても、古来、貴人を乗せる車を引くのは牛でしたし、闘牛なども本来は地域における農作の豊凶を占う意味があった様ですし、菅原道真が神格化した天神様の社には必ず牛がいますし、仏教でいうと頭天王(ごずてんのう)も牛の化身とされています。

 

それだけ、私達にとって牛は、大きな恩恵をもたらしている生き物と言えます。

 

さて次に「ダマ」ですが、これは「最も優れた」という意味です。ですので「ゴーダマ」は、「最も優れた牛」という事で、とても良い名前なんですね。

 

そして、「ブッダ」とは、「覚者」「悟った者」という意味で、サンスクリット語の「buddha」を音写したもの。

 

以上より、「ゴーダマブッダ」とは、「最も優れた牛という枕詞付きの、悟った者」という意味を持つ名前なんですね。

 

仏教では、「牛」を大切にする習慣が進化して、「生き物」全体を大切にする様に発展して行きました。

 

今回は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 


お早うございます。
ここ小室山では、辛夷(こぶし)が咲き始めました。
いよいよ春本番が近づいて来た気がします。

 

辛夷の花言葉は、「友情」「歓迎」「自然の愛」だそうです。
私は何故か、千昌夫の「北国の春」こぶ〜し咲く♪を思い浮かべてしまいます。私だけでしょうか・・・。

 

さて、引き続き原始仏教についての勉強を進めたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

 

人間/釈尊(3)

 

さて、今日からは、いよいよ釈尊の生い立ちに入って行きたいと思います。手塚治虫の漫画「ブッダ」等をお読みになられた方々ですと、何となく覚えていらっしゃるかもしれませんね。

 

彼は、釈迦族の王家の跡継ぎとして生を受けました。しかし、人生とは誰に対しても厳しいなと思うのですが、釈尊の母マーヤ夫人は、彼の誕生後1週間で亡くなってしまいます。

 

その後、父スッドーダナ王は、マーヤ夫人の妹であるマハバジャバディを後妻に迎えましたので、釈尊は義理の母に育てられることになりました。

 

とは言え、王家の世継ぎですから、将来の地位は約束され、物質的にも何不自由なく、大事に育てられました。
あらゆる学問・技術・芸術の教育を受け、非凡の才を示したと伝えられています。

 

どんな生活かと言うと、具体的には、蓮池のある夏・冬・雨期毎の3つの専用宮殿を持ち、雨期の4か月は、女性だけの伎楽達に囲まれ、決して宮殿から降りる事はなく、1年を通して寒さ・暑さ・雨・露・日差し等が、直接触れないよう、付き人が常に傘をかざしていたと伝えられています。

 

・・・滅茶苦茶大事に守られてますよね。

 

しかし、そんな物質的に恵まれた生活にも関わらず、彼の天性なのか、実の母無き寂しさなのか、少年時代から人生の問題に深く思い悩んでいたそうです。
庭を眺めると、強い生き物が弱い生き物を食い、宮殿の外に出ると、農夫が苦しんで生活をしている・・・。こうした事に、人生の真理とは何かを考え、物思いに耽る少年だったそうです。

 

・・・享楽的環境の中にあって、幼少期からこうした事に疑問を覚える等は、やはり桁違いに凄い人だなと思ってしまいます。

 

さて、こうした様子の王子を見ていた父の王様は、「王子をもっと楽しませたら良いのではないか、王子を結婚させたら良いのではないか。」と考え、釈尊16歳の時、妃を迎えます。

 

妃の名は、ヤショーダラ。才色兼備ながら目立たずしとやかな女性だった様です。そんな妃を迎えての宮殿生活は、しばらく楽しかった様です。

 

しかし、いくら物質的に恵まれても、いくら楽しくても、一旦心に深く刻んだ人生や世界に対する疑問は、消えませんでした。

 

・・・蓋をしても消し去る訳にはいかないんですね。

 

ついに29歳になった時、彼は宮殿を後にし、修行の道に入って行くのです。

 

今回は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 


こんにちは。
現在九州を旅しており、今日は福岡から投稿させて頂きます。
引き続き、原始仏教についての勉強を進めて参りたいと思います。
特に今日は、原始仏教や釈尊の生き方と対比することで、現代日本の仏教が、少しずれて来てしまっている事などにも触れたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

 

人間釈尊(4)

 

こうして釈尊は、王子としての地位も財産も家族も捨て、修行の道に入って行きます。
しかし、釈尊とて生身の人間ですから、大変な決心でした。仏典には、妻や愛馬と別れる辛さ、心情のきめ細かさ等が、記されています。

 

さて、仏教では、こうした事を「出家」と言いますが、この事が若干誤解されているので、少し説明したいと思います。

 

釈尊の生まれた時代、当時の習俗として修養生活に入るには、1つの大きな原則があったんです。

 

それは、「家族が生活に困ってしまう場合、出家した人は処罰されたという事です。」
釈尊の場合、もちろん妻のヤショーダラ妃が悲しんだことは間違いありませんが、しかし王家なので家族が生活に困る事は有りませんでした。

 

この原則、現代においても同じです。もし将来お坊さんになることお考えの方がいらっしゃれば、この点はよくよくお考えになって、家族が経済的に困窮する事は避ける算段をつけてからにして下さいね。でないと、きっと失敗します。

 

さて、出家した釈尊は、宮殿を後にし、森へ入り、頭と髭を剃り、くすんだ修行者の服に着替えます。

 

この衣服を「カシャーヤ」と言い、袈裟(けさ)の語源となっています。鮮やかな色であってはいけません。
執着を捨てる生活に入る訳ですので、人のあまり好まない、くすんだ色の衣服を身に纏うのです。

 

因みに「お布施」というのは、文字通り、当時は布が非常に貴重なもので、お金の代わりでもあり、その布の切れ端を縫い合わせて自らの衣服にしていたところから来ています。

 

この事から、お坊さんが煌びやかな袈裟を身に付けるのは、如何なものかと私は感じます。

 

また剃髪にも実は深い意味が有るんですよ。もちろん俗世の執着を断ち切る意味が、一般的です。

 

しかし大事なのは、当時のインドにおいて、剃髪は、重罪人に与える処罰の1つであり、もっとも重い辱めを与える行為だったんですね。

 

つまり、カースト制等、社会的なヒエラルキーが非常に厳しかった当時のインドで、釈迦族の王子が進んで自ら頭を剃ったという衝撃的な事なんです。

 

釈尊が、もの凄い革命児みたいな力強い人だった事は、この事からも容易に推察されます。

 

私達お坊さんは、そうした釈尊の弟子である、仏弟子である、と自らを励まし戒めを護持してゆける様にと、頭を剃るんですね。

 

従いまして、仏教に形は無いとはいえ、剃髪をしていないお坊さんは、どうかな?と個人的には思ったりします。

 

今回は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 

 


お早うございます。
ここ小室山も長く雨が続きましたが、今朝の空は澄んでいます。そして、禅堂の傍には、山吹が咲いています。

 

桜が見頃を過ぎる頃に咲くこの花は、古くは古今和歌集に、また源氏物語(若紫の巻)では、光源氏が、後の最愛の人となる紫の上に逢う場面として描かれています。桜のまだ残る京都山中の庵で、光源氏は、山吹色の衣装を纏った少女の色彩感覚に感動するんですね。

 

さて、1週間に1回位のペースで進めている「原始仏教」の勉強について、新しい投稿させて頂きます。
今回は、仏教が今日まで続く世界的な宗教になった1つの理由となる、釈尊とビンビサーラ王の出会いです。
どうぞよろしくお願い致します。

 

人間/釈尊(5)

 

釈尊は、出家後いくつかの王国を通って、マガダ国という王国の首都である王舎城(パーリー語では、ラージャガハ)へ行きました。
マガダ国というのは、中部インドのガンジス川南方にあり、当時のインドで最も栄えていた国です。農業生産性が高く豊かで、常に外国の知識や技術を学んでいたと言います。軍事的にも強力で、当時の文明の中心地だったんですね。

 

このマガダ国があった地は、阿蘇の外輪山の様に、元は火口であったと考えられています。というのは、インドには珍しく温泉があるのです。この外輪山の1つに有名な霊鷲山(りょうじゅせん)があります。

 

釈尊が、法華経や無量寿経を説いた場所とされていますが、原始仏教を勉強する限り、今のところハッキリしません。
この山は、長い間場所が分からなかったのですが、1903年(明治36年)、第1次大谷探検隊が発見し、その後、インド考古局の調査により、国際的に承認されました。

 

さて、原始仏典の「スッタニパータ」によると、この王舎城で、釈尊は、マガダ国のビンビサーラ王と運命的に出会います。

 

ビンビサーラ王は、修行中の釈尊の仕草や溢れる気品と威厳に感動し、ゴーダマブッダの住むパンダバ山中の洞窟へ赴き、多額の経済援助と軍事援助を申し出ます。
当時、釈迦族は一方の強大国、コーサラ国に征服されており、マガダ国は、対立関係にあったからとも言われています。

 

話は少し脱線しますが、ビンビサーラ王が申し出た軍事援助とは、象軍でした。当時の世界で、象軍は最も有力な武器でした。後にアレクサンダー大王がインドに侵攻しますが、インドの国王は象軍を使ってこれを撃退します。これ以降、西洋でも象軍を使い始め、ハンニバルがピレネー越えでローマに侵攻する際にも象軍が使われています。この影響なんですね。

 

話を戻しますと、釈尊はこの時、「私が出家したのは、欲望を叶える為ではない。もろもろの欲望には憂いのある事を見て、そこから出て離れる事は、安穏であり平和であると見て、勤め励む為です。私の心は、それを楽しんでいる。」と、キッパリ断ってしまったんです。カッコいいですね。

 

これが、ビンビサーラ王が、釈尊に帰依することになる最初の出会いでした。
このマガダ国は後に、アショーカ王の時代になると、インド全体を支配するようになり、これが釈尊の教えがインド全体に広がり、今日に至った1つの理由となります。

 

約2600年後の現在日本から考えると、ご縁とは、本当に不思議なものだと感じます。

 

今回は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 


お早うございます。
今朝の小室山は、日が差しているのに雨が降っていますが、西の空は明るいので、しばらくすると晴れるでしょう。

 

昨日、買い物に近くのスーパー迄歩いていると、黄色いタンポポ(蒲公英)が咲いているのを見つけました。
タンポポって、花も可愛らしいですが、花のあと結実して白い冠毛に覆われるのも愛らしいですよね。

 

大好きだった詩人、坂村真民のドイツ語に訳された詩集名も「TANPOPO」でした。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、このタンポポ、若葉は食用に、花弁はお茶に、そして根は乾燥させて焙煎するとコーヒーになるんですよ。

 

さて、1週間に1回位のペースで進めている「原始仏教」の勉強について、新しい投稿をさせて頂きます。
今日は、釈尊と悪魔が対決する場面です。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

人間/釈尊(6)

 

釈尊は、出家後、色々な仙人を訪ね教えを聞きますが、なかなか満足出来ませんでした。
そこで自分で修行する事にしました。当時のインドの修行は、肉体を痛めつける苦行でしたので、釈尊も色々な苦行をやったと伝えられています。
原始仏典「スッタニパータ」には、恐怖と慄きとの戦いや、悪魔の誘惑について伝えられています。

 

以下、悪魔ナムチの誘惑の場面です。

 

ネランジャー川の辺で、心の安らぎを得る為に勤め励み専心している私に、悪魔ナムチが、労りの言葉を発しつつ近づいて来て言った。

 

「貴方は痩せていて肌色も悪い。貴方の死が近づいた。貴方が死なないで生きられる見込みは、1/1000だ。君よ、生きよ。生きた方が良い。命あってこそ、もろもろの良い事も出来るのだ。貴方がヴェーダの学生としての清らかな行いを成し、神聖な火に供物を捧げてこそ多くの功徳を積むことが出来る。苦行に勤め励んだところで何になろう。苦行の道は、行い難く、行き難く、達し難い。」

 

釈尊はこれを退けます。
「私には信仰があり、努力があり、また智慧がある。この様に専心している私に、汝は何故生命の事を尋ねるのか。苦行を行うことから来るこの風は、川の水をも枯らすであろう。ひたすら専心している我が身の血が、どうして枯渇しないであろうか。そうすると我が思いと知恵と禅定(=精神統一)は、ますます安定する。わが心は、もろもろの欲望を顧みる事が無い。見よ。心身の清らかな事を。」

 

そして更に続けます。
「私は悪魔の軍隊に敗れて生きるよりも、闘って死ぬ方がましだ。悪魔の軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たら、私は立ち向かって彼らと戦う。私をこの場所から退けることなかれ。神々も、世間の人も、悪魔の軍勢を破り得ないが、私は汝の軍隊を、智慧によって破る。」

 

この釈尊の言葉を聞いて、悪魔ナムチは次の様に言います。
「我々は、7年間も釈尊に一歩一歩毎に付き纏っていた。しかしブッダには、付け込む隙を見つけられなかった。カラスが岩石を巡って、味の良い物があるだろうかと言って飛び回った様なものである。そこに美味を見いだせずして、カラスは飛び去った。岩石に近づいたそのカラスの様に、我らは飽きて、ゴーダマブッタを捨て去る。」
そして悪魔は立ち去りました。

 

原典が「スッタニパータ」ですから、この話は、恐らく本当の出来事だと私は信じます。
しかし一方で、この話は、何を伝えているのでしょうか。

 

悪魔は、当時のインドにおける世俗のヴェーダの祭りを「善」としました。
一方、釈尊は、ヴェーダの祭りや儀礼は、必ずしも実行する必要はない。
むしろ本当の人間を確立することが「善」と呼ばれるべきものであるとしました。
つまり、ここで「善」の観念が転換したのです。新しい倫理感が生まれた訳です。

 

もう釈尊は凄すぎです。私にとっては真のヒーローです。
この頃、一体どんなお姿をされていたのでしょうか。
僕は仏像で言うと奈良県の法隆寺隣接する中宮寺の「国宝菩薩半迦像」をイメージします。有り難い。

 

今回は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 


お早うございます。
今禅堂では、昨春、奈良/春日大社で分けてもらった藤の苗木、「麝香(じゃこう)」と「黒龍」が、何とも言えぬ馥郁たる香りを放ち始めました。根付いてくれたんですね。

 

藤と言えば、万葉の頃、政権中枢にいた藤原氏の色。大化の改新の功で、藤原の姓を賜った中臣鎌足の色です。
また藤は、源氏物語に、藤壺の女御が住まわれた殿舎を彩る花として描かれ、そこにはこの花に対する敬意が表されている気がします。
藤壷の女御は、桐壷帝の寵愛を一身に受け、更に帝の最愛の息子/光源氏からも慕われ続ける女性でした。

 

さて、1週間に1回程度のペースで進めている「原始仏教」の勉強について、新しい投稿をさせて頂きます。
今回は、核心となる「釈尊の悟り」についてです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

人間/釈尊(7)

 

森の中で一人苦行を続ける釈尊は、これでは悟りを得られないと思い至り、山から出て、ネランジェラー川の辺で沐浴をしたと伝えられています。
ここで、近くの村に住む娘、スジャータの捧げた乳粥を頂いたというエピソードはあまりに有名です。

 

釈尊が悟りを開いたとされる場所は、現在ブッダガヤーと呼ばれています。そこには、古来よりインドで神聖な木とされているアシュバッタという木があり、その木の下に坐して悟りを開かれたと伝えられています。

 

その木を私達は、菩提樹と言いますが、菩提とは、サンスクリット語の「ボードゥヒ(bodhi)」の音写で、「悟り」の事です。

 

因みに当時のインドでは、釈尊が初めて悟りを開かれる前から「悟り」という言葉は知られていました。しかし「悟りとは、滅多に到達することが出来ない、生命の最高の状態らしい」と考えられていました。また「過去には実際に仏陀(=悟った人)が居たようだが、今の世にはいない。」とされていました。

 

ですので、真面目な修行者達は皆、「悟りの内容」が分からないまま、「悟り」を目指して修行していたのです。
そんな状況でしたから、「仏陀が世に現れた」「釈尊が悟りを開かれた。」という話が広まった時、「仏陀?悟り?何それ?」と尋ねたのではなく、「仏陀が、とうとうこの世に現れたか…。」と感嘆したんです。

 

さあ、それでは、釈尊は一体何を悟ったのでしょうか。

 

一般には、「12因縁の理」を観察して悟ったと言われていますが、原始仏教を勉強すると、この12因縁説というのは、かなり後になって成立している事が分かります。
12因縁の理というのは、一言でいいますと「ありとあらゆるものは、原因によって成立している」というものです。

 

また伝説によりますと、「釈尊は禅定の中の、最終段階のものを完成された。」と言われています。ここで禅定の「禅」とは、サンスクリット語のdhyaana、パーリー語の jhaanの音写で、精神統一の事です。また「定」とは、心が定まった状態を表します。

 

また、「こういう風にして、釈尊が心を統一され、清らかになり、汚れが無くなり、穢れが無くなり、柔らかで、巧みで、確立し、不動となった時、過去の生涯を思い起こした。それによって、暗黒は消滅し、光明が生じた。清らかな天眼により、もろもろの生き物が、死に、また生まれる、その姿を見た。」とも伝えられています。

 

この様に釈尊の悟りの内容は、色々と相違して伝わっています。
それは何故でしょうか。当時、釈尊の教えはまだ確立されず、曖昧模糊としたものだったからでしょうか。
実は、ここに仏教の重大な徳性が見いだされます。

 

それは、釈尊自身が、悟りの内容を定式化して説くことを欲しなかったからなんです。

 

仏教と言うのは、特定の教義(ドグマ)が無いのです。つまり、釈尊は悟りの内容を、機縁に応じて、相手に応じて、異なった説き方をしたのです。
だから教えを受けた人が、釈尊の悟りの内容を推し量って伝えたという事なのです。

 

釈尊の教えは、対機説法と言われます。待機の「機」は、人間の精神的素質の事です。

 

仏典には「筏(いかだ)の喩え」というのが良く出てきますが、これは「(煩悩や無明の)川を渡る筏も、目的を達したならば、捨てなくてはならない。」という教えです。

 

そもそも教義というのは、宗教者が、人を導いて立派な人格を作り出すための方便です。
ですから、この教えは有り難いと言って、しがみつき、後生大事にし、果ては人にも強制的に信仰させようとするのは、愚かなことだと言って戒めます。

 

現実の社会でも、お医者様は、病気ごと、患者ごとに、薬や治療方法を変えます。風を引いた人の治療と、お腹が痛い人への治療は全く違います。しかし、病気を治して健康にしようと言う目的は同じです。

 

ですから、教えの伝え方を、その様にした場合、対機説法になったんです。

 

さて、翻って、世界の今の宗教はどうでしょうか。自らの教義に固執し、暴力を使ってでも信じさせようとする面がないでしょうか。

 

釈尊の教えには、そうした事が全くないのです。
これが、仏教諸国に階級闘争や覇権闘争はあっても宗教戦争が全くない、仏教の徳性の一つなんですね。

 

今回は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 


こんにちは。
昨日から東京に来ております。
時々山から下りてきて、都会に住む友人知人と触れ合うのも、刺激を受けて楽しいです。

 

さて、1週間に1度位のペースで進めている「原始仏教」の勉強につきまして、新しい投稿をさせて頂きます。
今回は、前回の釈尊の悟りに続いて、最初期における仏教の徳性についてです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

人間/釈尊(8)

 

前回、仏教には特定の教義(ドグマ)が無く、対機説法であり、そこに仏教の徳性が見られる事を申し上げましたが、これは仏教に思想が無いという事ではないんです。
釈尊は、色々な説き方をし、色々な人がその内容を推し量って伝えましたが、それは、やはり一つの考え方に帰結します。

 

それは、「既存の信条や教理に囚われることなく、現実の人間をあるがままに見る。そして、実践的存在としての人間の理法(「理(ことわり)」「ダルマ」とも言います)を体得し、安心立命の境地を得ようとする。」という事なんですね。

 

人間のあるがままの姿、つまり、美しい面も醜い面も含めて、あるがまま、如実に観察する事を原点としています。

 

そしてもう一つは、人間の理法・理・ダルマというものは、固定したものではなく、具体的な生きた人間に則して展開するものであるという事なんです。

 

この「固定したものではない、発展の可能性を秘めいている。」と言う実践哲学としての立場は、思想的に無限の発展を可能にします。
後代になって仏教の中に、多種多様な思想が成立し得た理由は、ここに有ります。

 

さて、過去の人類史上の宗教において、宗教はしばしば進歩を阻害するものと成りました。
しかし、原始仏教のこの立場は、進歩を阻害する事が有りません。
ですから、仏教諸国には、合理主義や科学との衝突や対立が見られないのです。

 

こうした立場と考え方は、現代や今後の社会にとって、大変必要な事ではないかと思われます。
と言いますのは、今や世界はグローバル化し、1つの地球として、お互いが活動する場となっています。

 

その時、他の人が信じられない教義を、信じなさいと言ってゴリ押しすると、争いの元になります。

 

そうではなく、色々な思想や意見が成立しているのは何故だろうかと、自分(達)に問い掛ける。

 

この問い掛けは、自分(達)を内省する事でもありますし、寛容な精神を必要とします。
従って、対立は生じず、むしろ出て来た答えは発展的なものになる筈です。

 

逆に申し上げますと、「寛容の精神」は、人間の理法に則る(≒人間のあるがままの姿を観察し、認められたもの。)という立場においてこそ可能であり、成立すると思うのです。

 

今回は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 

 


こんにちは。
風薫る若葉の季節になりましたね。
今日は、京都方面へ
移動する新幹線の中から投稿させて頂きます。
さて、「原始仏教」を通じて本来の仏教の姿を勉強する取組も、早や11回目になりました。
お蔭様で大勢の方々にお届け出来ている様でして、励みに感じております。
今日は、仏教における「核心の教え」についてです。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

人間/釈尊(9)

 

悟りを開いた釈尊は、その後しばらく悟りの境地を楽しんでいましたが、伝説によりますと梵天という当時インドの最高神が現れ、釈尊に説法を薦めたと言われています。

 

恐らくこれは、釈尊が「やはり、これは人に説く必要がある。」と思って、積極的に活動を始めた動きが、伝説を成立させたと思われます。

 

そこで釈尊は、ブッダガヤーからベナレスという地に赴きます。今でも列車で一昼夜掛かる距離を徒歩で行きました。

 

ベナレスの地には、鹿野苑(ろくやおん、鹿の園という意味)という場所があり、そこは別名「仙人(修行者)の集まる処」と言われていました。

 

何故ベナレスに行ったかと言いますと、そこは当時の知識人や聖者が集まるところだったからです。

 

現代でも学者の方が、何か研究成果を認めてもらう際に、学会へ行って発表しないと定説にならないのと同じです。
当時の新しい思想家である釈尊は、そこで先ず説いて認められたら、一般に広がりやすいと考えた訳です。

 

その鹿野苑で、釈尊は5人の旧友と再開します。一説には、釈尊の父、スッドーダナ王が、心配して派遣したバラモン達と言われています。

 

そこで釈尊は、自らの教えを5人に説いたところ、皆「そうですね。」と言って、釈尊の説に従いました。古い伝説では、「ここで、6人の真の修行者が現れた。」と言われています。
つまり、釈尊も含めた6人は、同じように修行し、同じように托鉢した分けです。

 

さて、そこで何を説いたのでしょうか?
これによって仏教が始まる訳ですから、極めて重要です。

 

それは驚くほど、シンプルな教えです。
「4つの真理」を説いたのです。四諦とも言います。

 

第1は、「人生は、苦である。」という事です。
ここで重要なのは、「苦」という言葉の概念ですが、パーリ語では「dukkha(ドゥッカ)」と言いまして、所謂、「苦しい」とは少し違うんですね。

 

「思う通りにならない」「思いのままにならない」という意味です。それを訳しようがないので「苦」という字を当てはめたのです。
仏教でいう「苦」とは、「思う通りにならない」という意味なのかと知りますと、「ああ、そうね。たしかにねえ。」と素直に頷ける気がしませんか。

 

そして頷いたら「じゃあ、どうしたら良いの?」と考えるのが自然だと思います。

 

第2は、「dukkha」が起こる原因は、何かという事です。
それは何かと言うと、「我々の存在の奥には、妄執があるからだ。」と言うんです。

 

この妄質とは、パーリ語でtanha(タンハー)と言いまして、「渇き」という意味です。
つまり、喉が渇くと、水が飲みたくてどうしようもなくなります。
私は、高校・大学と陸上競技部でしたらから、夏の合宿等を思い出すと良く分かります。

 

本当にどうにもならない極限になると、恐らく人間は、どんな水でも飲みます。何かもう我々を動かす衝動的なものが、存在の奥にあるという事なんです。

 

第3は、その衝動的な渇きの様な妄執を、制御する事が理想であるという事です。
この理想の状態を、ニルヴァーナとか涅槃とか言います。

 

つまり、理想の境地は、我々のどうしようもない衝動を制し導く事だと言うんです。
何か、僕なんかは「ふむふむ、なるほど。」と思ってしまいます。

 

第4は、その目的を達する為には、道がある。その道というのは、8つの正しい道であると言うんです。これを八正道と言います。

 

この8つの道を、漢訳仏典によりますと、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定と言います。

 

この8つを解説をしますと、以下の通りです。

 

1. 正見:正しい見解を持つこと。
2. 正思惟:正しい思いを持つこと。つまり我々の意欲に基づいた考えを正しくする。
3. 正語:正しい言葉を語ること。
4. 正業:行い、行為を正しくすること。
5. 正命:生活を正しくすること。
6. 正精進:正しく努力すること。
7. 正念:心の思いを1つの目的に向けて、正しくすること。
8. 正定:精神統一の極致。

 

この8つを、「正しくしなさい」「そしたら徐々に悟って行けるよ」と言うんです。

 

しかし「正しくする」とは何でしょうか?結構難しいですよね。

 

西洋で言う「正」「正義」は、「悪」に対立する概念ですが、釈尊の言う「正しくする」とは、「完全にする」という意味です。
一寸ニュアンスが違うんです。パーリ語で、Sammaと言います。

 

原始仏教が示してくれる釈尊の教えの真髄は、たったこれだけなんです。
凄くないですか?
もちろん1つ1つは、奥深いですが、僕はシンプルで美しいとも感じます。繰り返しますが、たったこれだけです。

 

さて、最後に原始仏典の1つ初転法輪経に書かれている「渇き/dukkha」についての記述を掲載します。

 

「ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。苦は、渇愛から生じます。渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という3つの特色をもち、5官を刺激したい、存在したい、壊したい、という3種類の欲で成り立っています。」

 

現代のどんな心理学より、深遠だと感じます。

 

本日は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 


こんにちは。
今、禅堂の庭に、向日葵(ひまわり)の種を蒔いていたら、野鳥たちが啄ばみに来てくれました。
その鳥たちの
さえずりを聴きながら、今日は原稿を書いています。
5月も八十八夜を過ぎ、夏の近づきを感じさせますね。

 

釈尊のお生まれになったインドは、6月からが雨期で、その前の4〜5月は酷暑期だそうです。そんな中、説法しながら旅を続けた釈尊を思い浮かべますと、本当に頭が下がります。

 

さて、「原始仏教」の勉強を進めているこの投稿ですが、今日は「釈尊の教えが、何故、今日の世界的な宗教になったか。」等についてです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

人間/釈尊(10)

 

釈尊は、ベナレス郊外の鹿野苑で初めて教えを説いてから、インド各地(主にガンジス川中流地帯)を経巡って教えを説きました。
雨期のインドは猛烈に雨が降りますから、雨の降らない時期に、あちこちへ行かれたそうです。

 

伝説では、ベナレスの商人達の家族を感化して弟子にしたり、元のブッダガヤーに行って火に仕えていたバラモン達を教化したとも言われています。
また、マガダ国の首都/王舎城で、当時の懐疑論者だったサンジャヤという人の弟子であるサーリープッタ(舎利弗)、モッガラーナ(目連)を弟子として入門させたとも伝えられています。盗賊の群れさえも教化して、弟子にしたそうです。

 

色々なのですが、特に重要なのは、マガダ国の国王であるヴィンヴィサーラ王が、釈尊に帰依したと言う事です。
国王が帰依したという事は、当時インドで王権がしだいに強大になりつつある時代に、大きな意味のある事でした。

 

因みに、「帰依」とは、「頼りにすること」という意味です。
サンスクリット語の「zaraNa」パーリ語の「saraNa」は、保護所・避難所という意味です。

 

ヴィンヴィサーラ王は、「この竹林園は、都会から遠からず近過ぎず、往来に便利であって、全て希望する人が行きやすく、昼は喧噪少なく、夜は音声少なく、人絶え、人を離れて静かで瞑想に適している。我は、竹林園をブッダの修行僧の集まりに寄進しよう。」と言ってプレゼントします。

 

そして、この「都会から遠からず近からず」というところが、初期仏教の社会性を理解する上で、重要なところです。

 

つまり、原始仏教に帰依した人たちは、主に王族・商人・手工業者等で、大体が都市人だったということなんです。

 

これは、都市生活を完全に肯定していたのではなく、むしろ否定形において原始仏教の修行者集団が成立していた事を意味します。
しかし、その都市から離れ過ぎてもいない共存関係なんです。

 

さて、釈尊は、南インドには行かれなかった様ですが、そちらからも多くのバラモンが訪ねて来て弟子入りしたと言われています。

 

釈尊は、この地で最初の内は、バラモンの修行者達に教えを説いていたのですが、だんだんあらゆる階層・職業の人に向かって教えを説くようになりました。

 

この「社会各層の人々に、広く遍く呼びかけたところ」が、釈尊の教えが後代に大きく展開する理由の1つとなります。

 

と言いますのは、仏教以前のウパニシャッド時代の哲人達は、独自の教えを説きましたが、それは限られた相手に対してだけでした。

 

ウパニシャッド文献には「この教えは、秘密の奥深い教えである。従って、自分の長男、あるいは信頼する弟子にのみ伝えよ。」等と書かれていました。

 

一方、釈尊は、こうした当時の知識や慣習等を踏まえた上で、厳しいカースト社会制度の中にあって、あらゆる人に教えを広めようとしたんです。

 

ある意味、もの凄い命懸けの革命児ですね。

 

こうした釈尊の考えは、その後、色々な人々、色々な組織に受け入れられて行きます。

 

仏教が、単にインドの一地方に起った宗教ではなく、アジア全体に広く遍く、普遍的な教えとして発展することになった大きな理由となります。

 

ビンビサーラ王が、釈尊に寄進した竹林園は、今でも幽すいな、とても良いところだそうです。いつか行ってみたいです。

 

本日は、ここ迄で終わります。合掌 一舟

 

 

 


こんにちは。

 

先日、禅堂の近くに、桑の実が沢山生っているのを見つけました。
一昨日、皇后様が「給桑(きゅうそ)」の作業をなされたと報道されました。

 

絹を織りなす最初の作業というだけでなく、日本の肌理細やかで豊かな感性を磨く模範を、皇室は示して下さっていると感じます。

 

赤い桑の実は、熟れると赤黒くなり、甘酸っぱくて美味しいのですが、その葉も天麩羅にすると美味なんですよ。
蚕だけに食べさせるのは勿体ないです。

 

さて、1週間に1度位のペースで進めている「原始仏教」の勉強につきまして、新しい投稿をさせて頂きます。

 

「人間/釈尊」として探究しているテーマも、そろそろ終盤に入って参りました。

 

今回は、「釈尊の最後の旅」についてです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

人間/釈尊(11)

 

釈尊の一生の行動の中で、殊に亡くなる前の最後の旅が、非常に詳しく経典の中に説かれています。

 

それによりますと釈尊は、当時第1の強国であったマガダ国の外輪山の一部である鷲の峰という所に住んでいましたが、ある時期にその峰を降りて、親しい弟子達と共に、北の方へ向かって旅に出ました。

 

何故、北に向かって進んだかについて、経典には理由が記されていませんが、釈尊が旅をして亡くなったクシナーラーという地は、ネパールの国境に近いところで、釈尊がお生まれになったルンビニーから遠くないのです。

 

人は晩年になると自分の故郷を思い慕うようになると言いますが、釈尊とて、やはり自分の故郷に帰って死にたいと思われたのかも知れません。

 

因みに、釈尊の2大弟子と言われたサーリープッタ(舎利弗)とモッガラナーナ(目連)も、旅をしながら教えを説き、最後は自分の生まれ故郷に帰って死んでいます。

 

私は、9・11のニュースを、銀行員の頃、北京出張の時に聞きました。その時、咄嗟に頭をよぎったのは、このまま戦乱になったら此処で死にたくないとの思いでした。
多くの人が、やはり出来たら生まれた国で死にたいと思うのではないでしょうか。

 

さて、その最後の旅路は、大パリニッバーナ経(大般涅槃経)に詳しく記されています。
その伝えによりますと、釈尊は、旅を続けながら教えを説いているのですが、釈尊の死が遠くないことを弟子達も気づいていたのです。

 

そしてある弟子が、「お師匠様がいなくなったら、私達は、何を頼りに生きて行けば良いのでしょうか。」と痛切な問いを投げ掛けます。

 

それに対し釈尊は、「自分がいなくなったからといって、何も嘆き悲しむことは無い。生まれた人は、やがて死ぬのだ。自分がいなくなったからといって、何も嘆き悲しむにあたらない。自分が説いた、法と律がある。もしも自分が教団や仲間を指導していたのならば、それは自分がいなくなったら、皆嘆き悲しむであろう。しかし、嘆き悲しむな。自分の説いた法と律がある。それを頼りにせよ。」と仰いました。

 

これが、有名な「自灯明、法灯明」の教えです。

 

さて、ここで「法」と言うのは、理(ことわり)・理法・ダルマ、つまり教えの事です。
そして「律」と言うのは、行動の規定の事です(どういう具合に行えという教えです。)。

 

そして、その「法」や「律」を理解し、判断する力が、人間一人一人の心の中に、元々ちゃんと備わっていると仰られたのです。

 

従いまして、仏教における生き方とは、「法」を体得し活かす為の修行でして、その意味において出家も在家も無いのです。

 

お坊さんになると言う事は、その修行をし易いという面があるものの、より本質的には、高みに向かって努力する覚悟を決め、実際どう行動しているかだけの様な気がします。

 

逆に言いますと、袈裟を着ていようと着ていまいと、「自灯明、法灯明」で懸命に生きようとするなら、立派な修行者と言えます。

 

ですから、袈裟を着ていても、それが出来ていないならコスプレ坊主とも言えるのです。

 

もちろん袈裟を着る厳粛な意味は有ります。
しかし本質的に、形は関係ないのです。

 

また、「法律」という言葉は、そもそもこうした意味ですので、生業とする法曹界の方々にも知って頂き、なるべく深く理解して欲しいと思います。

 

釈尊最後の説法と言われる「自灯明、法灯明」は、あまりに有名ですが、釈尊が仰られたことには、驚くべき内容が含まれています。

 

つまり仏教の開祖であられる釈尊は、「自分は、教団の指導者ではない。」とハッキリ言われたのです。

 

これは、宗教指導者としては、恐るべき核心の表現だと思います。
私は、後世への戒めと受け止めます。

 

昨日、山口の親しくしてくれた叔父が亡くなりました。
心からご冥福をお祈りするとともに、それぞれのタイムアップ迄、一修行者として、行けるところまで行くしかありません。

 

本日は、ここ迄で終わります。 合掌 一舟

 

 

 


お早うございます。
関東地方も梅雨入りし、しばらくすっきりしない天気が続きそうですね。

 

お寺では、この時期を雨安居(うあんご)と申しまして、お寺から出ずに専心修行する期間に入ります。
始まりを結夏(けつげ)、終わりを解夏(げげ)と言います。
本来は、草木が生え繁り、昆虫など多くの小動物が活動する時期のため、外を歩き回り無用の殺生を防ぐ目的でした。

 

さて、1週間に1回位のペースで進めている「原始仏教」の勉強につきまして、新しい投稿をさせて頂きます。
今回は、「人間/釈尊」としてシリーズ形式で続けて参りました投稿の最終回となります。
次回からは、原始仏典「スッタニパータ(Sutta Nipata)」に取り掛かろうと考えています。

 

また、来週は伊勢神宮で毎年行われる雅楽講習会への参加で、缶詰になりますので、1回お休みとさせて頂きます。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

人間/釈尊(12)

 

これまで、釈尊の生涯を辿りながら、初期の仏教がどういうものであったのかを探って来ました。

 

この過程で浮かび上がってくる人間としての釈尊像は、非常に力強さを感じさせる一方、相手をやっつけるとばかりに説き伏せるという態度でもなく、一つの信仰に向かって相手を脅迫するといったところもなく、とても静かな姿です。

 

異なった宗教に対しても憤りを発することは無く、非常に寛容でした。
私達から見ると、とても単調に見えるほど平静な心境を保って、物静かに、かみ砕いて教えを説いて行きました。

 

些細な事を語る時も、重大な事を語る時にも、同様の調子です。少しも乱れがありません。

 

仏教は後に、広く世界に広がり、人の心の中に温かい光を灯すことが出来たのですが、それは釈尊のこうした性格によるところも大きいと考えられています。

 

さて、仏教が広がり影響を及ぼした国々には一つの特徴が見られます。
それは、教義を固執して、人々を圧迫するという事がないのです。

 

総じて宗教と言うものは、偏執に囚われると、争いを生じます。ですから宗教にけ基づく戦争や闘争というものが起きました。

 

ところが仏教が広く伝わった地域では、宗教に基づく争いというものが有りません。
宗教戦争と言うものが。全く無いんです。
南アジアや東アジアの国々において、この特徴が見られます。

 

日本においては、法華一揆や一向一揆という事がありましたが、その実態は、民衆が封建的な強権に対して争ったもので、宗教戦争ではありません。

 

また島原の乱も同様です。
この乱の中には、キリシタンでない農民や浪人が多く含まれていました。
彼らはキリシタンの徒から、「ゼンチョ」と呼ばれていました。「ゼンチョ」とは、英語の「gentails」でして、異教徒という意味です。

 

こした人々も一緒になって反乱を起こしたのでして、つまり封建的支配に対する抗争だった分けです。

 

ですから、宗教的教義(=ドグマ)に基づいた戦争と言うものは、仏教文化圏には見られないのです。

 

これは、人類の歴史において驚くべきことです。

 

原始仏教を勉強してゆきますと、それは宗派的対立やイデオロギー的対立を、遥かに超えたものであると分かります。
私は、こうした歴史の事実に、何かとても参考になる希望の光を感じます。

 

とかく現代は、大量の情報に翻弄される中、色々な固定観念や特殊な言葉に囚われ、それらを原因とした争いが多発している気がします。

 

私はお金の研究家でもあるのですが、グローバル化に代表される資本主義でさえ、一種の固定観念だと思っています。

 

資本主義の前提である「成長」というものが、紀元1世紀〜近世の始まる1,800年間、まったく存在しなかったことが経済史的に明らかになっているからです。

 

宗教的対立が甚だしかったのは、中世から近世の始めに掛けてですが、それ以降は、宗教的対立に政治や民族問題が結びついて、話がややこしくなっています。

 

また、今でも宗教的末端の教義に固執した対立というものは、無くなっていません。
今時どうしてあんなことを信じる人がいるのかと思う様なことが、依然として行われています。

 

こうしたことを考えますと、「(そもそも対立や闘争の元である)偏執の生じる由縁を考えなさい。」と教えた釈尊の説くところが、これからの私達にとって、益々重要になってくる気がしてなりません。

 

人は、決して賢くなっていないと思うのです。

 

以上、「人間/釈尊」と題しまして、シリーズ形式の勉強を続けて参りました。

 

ここ迄お付き合い頂き、本当に有難うございます。 合掌 一舟